■ 泡 沫 の 華 〜 三 郎 s i d e 〜 ■
眠れない身体を無理矢理寝かし付けたら、嫌でも雷蔵の夢を見る。
最近はずっと同じ夢だ。雷蔵が、ただじっと私を見ている夢。
夢の中の雷蔵の顔には、怒りも悲しみも感じない。無表情のまま、私を見ているだけ。
「雷蔵…」
夢の中の私が彼に話し掛ける。しかし、何の反応も返って来ない。
「雷蔵、ごめん…本当にごめん……」
これは夢だ。私の声が届く訳が無い
雷蔵に届かないと知りつつも、私は雷蔵に言葉をかけ続ける。
この声が、夢より向こうの現実で生きている雷蔵に届いたら、どれだけ嬉しいだろう。
私は、雷蔵と喧嘩別れしてから一度も彼に会っていない。
でも、雷蔵に怒られるような事をしたのは私だ。
雷蔵が私を憎んでさえいてくれれば、私が居なくなっても彼が悲しむ事は無い。
だからあの日、わざと雷蔵に嫌われるような事をして、あの危険な任務に赴いた。
それだと言うのに…私の心は、どうやら雷蔵に許して欲しくて仕方が無いらしい。
夢の中とわかっていても、私は雷蔵の顔を見ると謝罪せずにはいられない。
優しい雷蔵の事だから、一度謝っただけでも彼は全てを許してくれるだろう。
でも、雷蔵を想う私の心が、許される事を拒絶する。
私が居なくなって悲しむ雷蔵を見たくない。だから、どうか私を許さないで…憎んでくれ。
そんな心理から、私はこの夢を見ているのだろう。夢の雷蔵は私の謝罪を聞く為に現れる。だが、許しの言葉も優しい言葉も無く、ただ私を見つめるだけ。
しかし、夢の中でも私は彼に触れるのは許されない。
「雷蔵…」
雷蔵は手を伸ばせば届く位置にいる。それなのに近付けば近付く程雷蔵の姿は遠のき、手を伸ばしたら霧となって消えた。
雷蔵が消えてしまえばもう夢を見る必要が無くなり、意識は覚醒へと向う。「うっ……」
乾いて上手く開かない目を無理矢理開かせれば、まず胃の辺りから不快感が込み上げた。
食道がヒリヒリ痛む。しかし、酷いムカつきから何も食べていなかったから、上がって来るものなど何もない。
吐きたいのに吐く物が無い苦しみ程、厄介なものはない。
そして次いで襲ったのは息苦しさ。
妙に酸素が足りなくて、なるべくゆっくり呼吸するように努めるが上手くいかない。
その時、突然喉の奥で熱いものが気道を塞いだ。
「ッ!…げほッ!…ぐっ、かはっ!」
咄嗟に側にあった手拭いで口元を押さえ、激しく咳き込んだ。
じわり、と手拭いが生温かい熱を帯びる。しかし、いくら咳き込んでも苦しみはなかなか治まらない。
暫く噎せ続け、漸く苦しみが少しずつ引いてきて、手拭いを口から離す。
口を押さえていた布は、赤で染まっていた。毒が肺にまで回ってきてるらしい。
また保健委員会に迷惑かけてしまうなと思いながら、私は汚れた手拭いを床に置いた。ここ最近はそれの繰り越しだ。夢を見れば雷蔵の恋しさに魘され、夢から覚めたら毒の苦しさに喘ぐ。
解放されない肉体的な苦痛と精神的な苦痛。
保健委員会の皆は、なんとか解毒させようと東奔西走してくれているが、私には先が見えない延命治療にしか感じない。
どうせ治る見込みが無いのならば、さっさと終りにしてほしかった。だが、そんな時間ももう長くは続かないだろう。
日を追う毎に、夢の中の雷蔵が透けて揺らいできた。
私の衰弱に比例して雷蔵も消えてゆく。また、反比例のように身体を襲う毒の脅威も強まってきた。
夢の雷蔵が完全に消えてしまった時、それは肉体の死だろうか。それとも、精神の限界だろうか。
どちらにしろ、雷蔵とは二度と会えなくなるだろう。それだけは確かだ。
だから夢でまだ雷蔵に会える今の内に、早く旅立ってしまいたかった。
しかし、薬で延命された命は簡単に尽きる事は無く、保健委員会に懇願するも聞き入れてくれなかった。
このまま苦しみながら死を待つしか無いのか…。半ば絶望的になっていたある時、ふと布団の横に置いてある冊子に目が止まった。
誰かが忘れて行ったのだろうか、それは保健委員会の日誌だった。
半分好奇心、半分苦しさを紛らわす為と、私はそれに手を伸ばす。
そこには私がこの部屋に運ばれた時から今日までの記録が事細かに記されてあった。
そして、保健委員会は保健委員会なりに延命に対して胸を痛めている事も、早く薬を作ろうと努力している事も、そして、皆諦めずに私を応援してくれている事も…。
それを見た瞬間、今までとは違う別の苦しさが胸を襲った。
保健委員会の皆が、私を励ましている。出来ればそれに応えたい。
だけど…私は薄々気付いていた。夢の中の雷蔵は、恐らく次の夢で完全に消えてしまう。
雷蔵のいない世界で、私は生きていける自信が無い。
だから手遅れになる前に、私は最後の記事の次のページに、震える字で謝罪と御礼を書き込んだ。私の悪い予感は当たっていて、雷蔵の夢は本当にこれで終わりのようだった。
もう、うっすらと輪郭を残すぐらいしか雷蔵の姿が見えない。
うっかり手を伸ばしそうになる。しかし、夢であっても弱ってしまった腕はピクリとも動かない。
やはり、彼の幻を前で謝るしか出来ないのか。
これが最後なら、もう悔いの残らないようにしなくては。
意を決し、私は伏せた顔を上げて雷蔵を見た。
しかし、目の前の彼を見て、私は驚かずにいられなかった。夢の中の雷蔵が、初めて笑っていた。
薄く透けてしまった幻影、それでも彼は私の大好きな微笑みでこちらを見ていたのだ。
驚愕で動けずにいると、ふいに雷蔵は私の手を掴んだ。
熱い。でも、とても心地良い。
直ぐ離れて行きそうな手が切なくて、私は逃がすまいとその手を握り返した。
"…三郎"
雷蔵が話掛けてきた。酷く懐かしい声だ。
胸が締め付けられるように苦しい。今までただ見てるだけだった雷蔵が、こんなにも私に接してくれる。
それがこんなにも嬉しかった事は無い。例えこれが夢でも、例えこれが最後でも。
しかし、雷蔵の身体は消失の一途を辿っている。既に下半身は形を成していなかった。
「…雷蔵…」
早く伝えなくては。彼が消えてしまう前に。
「……ごめんなさい…雷蔵…ごめん…」
消えてしまう。私の中の雷蔵が…消えてしまう。
もっと伝えたい。でも、時間が無い。
だから時間が許すまで、何度でも…何度でも言ってやる。
その時、一際大きく雷蔵の姿が揺らいだ。
嫌だ…消えないでくれッ!
雷蔵の姿が見えなくなる寸前、彼は再び温かく微笑んだ。『三郎…謝るなよ。お前だって、今まで頑張ったんだろう。もう…何も気に病むな』
「……!」
世界が闇に沈む。雷蔵の姿も完全に見えなくなってしまった。
でも…どうしてだろう。まだ近くに雷蔵がいるような気がする。
手の温もりが、手の感触が、まだ鮮明に残っていた。
「雷蔵…何処…?」
『僕は此処にいるよ。お前の目の前…』
私の…目の前?
でも、私の視界は黒一色で覆われている。何処にも雷蔵の姿は無い。
『目を閉じてるからわからないんだろう?ほら、目を開けて…』
…目を、閉じてるから?
まさか、現実で直ぐ近くに雷蔵が居るのか。
徐々に身体の感覚が目覚める。胃のムカつきも、噎せそうな息苦しさも、全てが覚醒する。しかし、手の温もりは決して消えない。
そして私は、今まで縋っていた夢を拭い捨てて目を開いた。焦点の合わない目は目標を求めて彷徨う。
漸く目が像を結んだその時、最も会いたくなかった、でも、一番会いたかった人物が視界に映った。
「っ…雷、蔵」
信じられない。何で雷蔵が此所に…?此所は保健委員会によって固く立ち入りが禁止されている場所なのに。
それとも、これも夢の内なのか…。
「な?わかっただろ。…僕は、此処にいるから…っ」
雷蔵の声が震える。その大きな目からは、次々と涙が零れ落ちていた。
「雷蔵…」
「ッ…へへっ、涙…止まんないやっ…」
「…本当に…雷蔵、なのか…?」
「そうだよ。…僕の顔、忘れたかい…?」
忘れる筈が無い。忘れて堪るか。
ただ、目の前の真実が、あまりにも幸せ過ぎて実感が沸かない。これは夢じゃないのかと、何度でも疑ってしまう。
もっと確かな…これが夢ではないと言う証拠が欲しい。
「雷蔵」
「な、に?三郎…」
「雷蔵の顔…近くで、見たい…。起こして…」
「ん、わかった」
もう自力では起き上がる事は愚か座る事さえ難しい。
私は雷蔵に支えられながら、ゆっくりと座らされた。
ぐんと雷蔵の顔が近くなる。恐る恐るその顔に手を伸ばした。
夢のように消えたりしない。懐かしい感触。忘れる筈がない。これは紛れも無く雷蔵だ。
確信した瞬間、視界が大きく滲んだ。瞬きをしたら、熱い滴が目から落ちた。
「夢でも…幻でも、ない…」
「うん」
「本物だ…ッ…雷蔵…雷蔵ッ!」
その瞬間、自分で意識する前に雷蔵に抱き付いた。
雷蔵に会いたくなかった理由なんか、全て吹き飛んでしまった。
喜びに支配される。この感情を抑える術を私は知らない。
雷蔵の背に腕を回すが力が入り切らなくて酷く切ない。でも、その代わりに雷蔵が強く抱き締めてくれた。
「もう…会えないと…思ってた…ッ」
「うん」
「…ッ、会いたかった…謝りたかった…ごめんっ、雷蔵…!」
やっと、やっと言えた。今まで言いたかった、でも言えなかった言葉が。夢ではなく、現実の雷蔵に向かって。
「…、…そんなに後悔するぐらいなら、悪戯とかしなきゃ良かったんだよ…」
「だって…嫌われたままなら…俺に何かあった時に、雷蔵が悲しまなくて済むだろう?」
「バーカ。あれぐらいの悪戯で、嫌いになりきれる訳無いだろう」
「んっ……」
胸がいっぱいになる。張り裂けそうなぐらい苦しい。でも、不思議と悪くない。
「僕だって、後悔したんだ。あの日、三郎を部屋から追い出したりしなかったら、こんな事にならなかったかもって…。僕の方こそ、ごめんね」
雷蔵がその胸の内を明かす。雷蔵も雷蔵なりに、胸を痛めていてくれた。
憎まれようとして必死だったのに、それが無意味だとわかり、私は少しの後悔とそれを越える喜びを感じていた。
それこそ、思い残す事が無いぐらい。
ああ、でももっと雷蔵が欲しい。欲しくて堪らない。
「雷蔵…」
顔を近付けたら、雷蔵は私の要求を悟ったのか、微笑みながら目を閉じた。
久々の接吻。重ねるだけでは足らず、少しだけ舌で口内を這わせる。
彼の口内は、変わらず甘い味がした。
息苦しくなり、名残惜しく思いながら口を離す。でも、私の心は満たされていた。
「…雷蔵」
「なに?」
「ずっとこうしていたい…」
「うん、今夜は一緒にいてあげるから」
「明日は?」
「授業が終わったらな」
「………」
「そんな残念そうな顔するなよ。終わったら直ぐに来るから」
「…約束」
「するよ。その代わり、僕の前では絶対「死にたい」なんて言わせないからな」
「……うん」
もう言わない。決して言わない。
早く尽きろと願った命は、雷蔵を見た瞬間に少しでも長く共にありたいと思えるようになった。
雷蔵が更に大きく包むように抱き締めてきた。温かい。
「………そうだ。重湯持って来たんだけど、飲めるか?」
「雷蔵が手伝ってくれるなら…頑張る」
毒の苦しみは、雷蔵がいれば乗り切れる気がした。だから、これぐらいの甘えは許して欲しい。
「ふふ、仕方無いなぁ」
雷蔵が笑う。私も微笑み返す。
この命が、少しでも長く繋がるように、私は差し出された重湯の器に口を付けた。〜fin〜
〜〜あとがき〜〜
折角の鉢雷の日なので記念に…←
雷蔵視点と微妙に文章が被る所がありますが、使い回しではありません。シンクロです(ぇ)
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