「狐が怯んだぞ!今の内に退けぇ!!」

 誰が叫んだのかわからないけどそんな声が聞こえた。
 三郎は銃声と共に額を地に付けるようにして伏せた。
 爆音が脳内で木霊して暴れている。やはり銃声は三郎の弱点なのであろう。
 その直後に盗賊達は逃げ出し、森の闇へと消えて行った。
 妙な静寂が辺りを包む。
 盗賊達が立ち去って尚、三郎は顔を上げられずにいた。
(雷蔵、は…?)
 銃声を間近で聞いた所為で耳鳴りがする。匂いも感じない。
 雷蔵の気配を感じる事が出来ず、三郎は不安に襲われた。
(しっかりしろ三郎!何を不安に思う事がある。雷蔵は母の仇じゃないのか!)
 自分を励ますように心の中で叫ぶ。しかし、それでも身体の震えは治まらなかった。
 もし顔を上げてそこに雷蔵が打たれて倒れていても、三郎にとって母の仇が死んだだけの事。何も嘆く事は無い。
 しかし、それでも彼は怖かった。
 雷蔵が近くで死んでいると思うと、彼の優しい笑顔が残酷なぐらい三郎の脳内を揺るがせた。
(雷蔵…ッ!)
 恐怖を堪えるようにグッと拳を固める。
 その時、柔らかな掌が三郎の頭を撫でた。
「ッ!」
「ぁ、う…ぉ?」
 聞き慣れた、言葉きならない声。それが聞こえた瞬間、三郎は顔を上げた。
 しかし、目に映った紅と鼻を突いた鉄の匂いに、彼は目を見開いた。
「雷蔵…腕ッ!」
 トロリ、と流れる血液。
 やはり弾は当たっていたのだろう、雷蔵は二の腕から血を流していた。
 それを目にした瞬間、三郎は目の前が暗くなるのを感じた。
 自分の母親が死ぬ間際の光景が脳内で映し出される。彼の母親もまた、銃で死んでいるのだ。
「…お前、っ…そんな…」
 雷蔵の怪我自体はそこまで酷いものではない。恐らく数日程で治るだろうし、三郎もそれぐらい理解していた。
 しかし、母親を殺されている三郎にとって、銃に撃たれれば死ぬと言う印象があまりにも強い。
「…何故だ」
「ん?」
「何故俺を庇ったんだ雷蔵!俺が勝手に人間に喧嘩売ったんだ!お前は関係無いだろう!!」
「ぇ…」
「それなのに…わざわざ飛び込んで、死ぬかも知れない怪我までして…!そんなに死に急ぎたいのか!?」
「ぅ…ううん!」
 首を横に振って否定を示す雷蔵。再び目が合えば、彼は悲しそうな顔をしていた。
 三郎を助ける為の行動だった筈だったのに、それが彼の迷惑だったのか。そう捉えている表情だった。
 やがて雷蔵は顔を伏せた。悲しそうなその瞳はあまりにも切なく、今にも濡れてしまいそうだ。
 違う。雷蔵をこんな顔にさせたかったんじゃない。
「…ッ、ごめん…こんな事、言うつもりじゃ…っ、無かった…。…忘れてくれ…ッ」
 些か感情が昇ぶり過ぎた。不安と興奮で呼吸が荒がり、暫く抑えられそうにない。
 顔を伏せて肩を上下させるように呼吸をすると、雷蔵の手が三郎の皮膚の上を滑った。
 殴られた頬から肩、腕へ。怪我が無いか確かめるように。
 その後、雷蔵は再び頭を撫でて来た。
 恐る恐る顔を上げると彼は反対の手で三郎の頬に手を当てた。
「ぁ…あは!」
 いつもの、見慣れた笑顔。
 三郎を安心させる為だろうか、心にしろ身体にしろ傷が痛まない筈は無いのに、それでも雷蔵は三郎に笑顔を見せた。
 雷蔵の優しさは三郎の不安を打ち消すと同時に、酷く胸を締め付けた。
「雷蔵…」
「ん?」
「腕を貸せッ」
 返事を待たず、三郎は雷蔵の腕を掴んだ。
 傷が痛んだのか、雷蔵は俄かに表情を歪める。
 しかし、そんな事も構わずに、三郎はその傷に手を這わせた。
「い゛ッ!」
 突然の三郎の行為と激痛に、雷蔵は絞り出すような声を上げる。
「あ゛、ぅッ……ぁ、あ?」
 始めはおっかな吃驚して身体を強張らせていた雷蔵だが、三郎の手が傷口を往復する度に不思議と痛みが和らぐのを感じた。
 良く見れば、三郎の身体が淡く発光していた。
 それは昔、三郎がまだただの狐同然だった時に、母が唯一教えた治癒の術だった。
 勿論、この十年間人を憎んで生きていた彼が、そんな術を使った事は一度とて無かったのだが。
 殆ど痛みを感じなくなった時、三郎はまだ俄かに血の流れるその傷口に齧り付いた。
 傷口を強く吸い上げれば、コロリと口の中に硬い塊が落ちる。顔を背けてそれを吐き出せば、丸い銃弾が小石に物かって小さく音を鳴した。
 引き続き、三郎は傷を擦る。労るように優しく、優しく。
(何やってんだよ、俺…。コイツは憎むべき人間…ましてや母さんの仇だぞ。傷を癒して…何になると言うのだ…!)
 自分で自分の行動が理解出来ず、三郎は己に問う。しかし、その答えは出て来ない。
 ただ心の底から聞こえる、雷蔵を助けたいと言う声の言いなりになったように、三郎は傷を癒し続けた。

 そして、雷蔵の傷が塞がったその時、慣れない術で疲れたのか、三郎は眠るように気を失った。

 翌朝三郎は、昨日盗賊が野営していた場所に戻ってきた。
 昨夜、眠った三郎は雷蔵に抱えられてそのまま寝床に戻った。勿論、その場所は片付けておらず、盗賊達が残していった物が散乱していた。
 荒れた広場を見ながら、三郎は昨夜の出来事を思い返していた。
(俺は、どうかしてる…。あんなに憎かった人間を、助けたいと思うなんて……)
 人間は母を殺した敵。
 人間は憎むべき生物。
 人間は自分にとって餌となるだけの存在。
 十年前から自分に言い聞かせてきた言葉は、今でも三郎の骨の髄まで染み込んでいる。誰一人、例外なんて無い。
 それは雷蔵と出会ってからも、気持ちが変わる事はないだろうと思っていた。
 雷蔵は母を喰らった者。
 雷蔵は言葉を持たぬが歴とした人間。
 雷蔵は許されざる母の仇。
 三郎は心の隙きに付け入る為に『トモダチ』として雷蔵に近付いた。
 始めはトモダチの在り方等、全くもって知らなかったが、雷蔵と接する内にいつの間にかそれを習得していた。
 共に遊ぶ事、共に何かを食べる事、共に寝る事、相手を知る事、自分を教える事、時には喧嘩して、そして命を懸けて助け合う…。
 それらの行動…否、それ以外の事柄でも、全てを引っ括めて、共に生きる。それが『友達』になると言う事なのだと。
(母さん…俺はどうしたら良いのですか?)
 今更人間を許すなんて出来やしない。雷蔵だけを例外なんて出来ない。
 憎しみを消す事は、今までの三郎を否定するに等しいのだ。
 ましてや、人間を怨むきっかけとなった人物が相手なら尚更だ。
(トモダチ…人を縛る術と思っていたが、縛られていたのは己だったか…)
 三郎は、いとも簡単に情に溺れてしまった自分を恥じた。
 こんな事が無いように、彼に忌むべき「雷」の名を刻んだと言うのに…。

「…ぁ!おーい!」
 遠くで雷蔵が呼ぶ声が聞こえた。
 三郎は慌てて『トモダチ』の顔を繕って彼の方へ向いた。
「どうした雷蔵?」
 駆け寄ってきた雷蔵は、少し乱れた呼吸を整えながら首を横に振る。
 差し詰め、三郎の姿が見えないから探しに来た、と言った事だろう。
「…そっか」
 一呼吸置き、三郎は思い切って問う。
「なぁ、雷蔵」
「ん?」
「君は、人のいる場所へ帰りたいと思わないのか?」
「!」
 純粋な疑問だった。雷蔵は帰ろうと思えば人里へ帰れた筈だ。
 勿論三郎は彼を帰すつもりなど無かったが、雷蔵は元より帰ろうとしない。
「君ももうわかってるだろう。この森は妖怪と邪な人間しかいない。お前のような純粋な心を持った人間はいないし、便利な物も無い」
「………」
「この森は、雷蔵になんの利益ももたらさない。なのに何故この森にとどまる?」
 その問いに雷蔵はキョトンと目を丸くする。暫し考える素振りを見せた後雷蔵は三郎の手を掴んだ。
「っ?」
「…えへっ」
 問いに答えず、ただ微笑むだけ。
 雷蔵は表情でしか気持ちを伝えられない。しかし、その微笑みの奥にある真の心を、三郎は知り得る事が出来ない。
(雷蔵…お前が話せる言葉があるのなら、一度で良いから聞きたい。お前の本音を…)
「……んん?」
 黙り込んだ三郎が気になるのか、雷蔵は心配そうな声を出す。
「…ううん、何でもない。さ、雷蔵。ここを片付けようか」
「うん!」
 取り敢えず、雷蔵はまだ帰らない。今はそれで良しと思うようにして、三郎は散乱している物を集め始めた。

 盗賊達はかなりの物をその場所に残して行った。
 焦げた薪に魚や動物の骨。恐らく食事をした後だったのだろう。
 用途不明な物として沢山の紙や円く小さな金属が入った袋、黄金色の平べったい板のようなものが何枚も入っている箱。
 その他使えそうに無い物は土の中に埋める事にした。
 雷蔵が品物を一ヶ所に纏めている間に、三郎は地面に穴を掘る。
 掘ると言っても道具は近くで拾った先の尖った木の棒のみ。手と棒で穴を掘ると言うのは気が遠くなるような作業だ。
 ザクザクと土を掘り返しながら、三郎は昨夜の事を思い返していた。
 三郎が一人で人間四人に襲いかかり、一人仕留めた所で別の男が現れ、逆に捕らえられた後に力を解放させようとしたら雷蔵が……。
(あ、あれ…?)
 そこで三郎はある事に気付く。

『き、狐だ!!狐の仲間が来た!!!』

 昨日の男は、確かにそう叫んだ。
「なぁ、雷蔵」
「ん?」
「昨日の男、お前見て狐って言ったよな」
「え?…ぁ、うん」
 雷蔵は人間だ。雷蔵の何処を見紛えば狐と見えたのだろうか。
「おっかしいなぁ。私幻術使った覚えは無いのに…」
「え…?」
「人間ってのは、同じ人間をも狐に見間違えたりするもんなのか?」
「あッ…ぃ、あ!」
「え、何?」
 何か言いたそうな雷蔵の様子に、三郎は作業していた手を止める。
 雷蔵は三郎の側に寄ると、ペタペタと彼の顔に触り始めた。
「あ…あ…!」
「へ?ちょ、雷蔵?」
 行動の意図が読めていないと悟った雷蔵は、今度は盗賊が残していった物品を漁り始めた。
「どうしたんだい?雷蔵」
「ん〜……あっ!」
 土に埋める予定の物の山の中から、雷蔵が何か見付けたようだ。
「…脇差?」
 少し土で汚れた脇差を抜いたり眺めたりと調べた後、雷蔵は刀身を見せるように三郎に差し出した。
「…刀が、どうかしたのか?」
「ううん…ぁ…ぉ、お…」
 コンコンと刀身を指で示す雷蔵。だが、注目して欲しいのは刀身ではないらしい。
 雷蔵が言いたいのは、曇り一つ無い刀身の向こう。刀に映るその姿。
「…あ!」
 漸く雷蔵の言いたい事が理解出来た。
 黄金色の髪、大きな目と鼻、やや細めの輪郭。
 刀身に映る自分の顔は、雷蔵と瓜二つだった。
 それまで自分の顔に無関心だった三郎は、初めてその事に気付く。
「雷蔵…君が言いたいのはこうか?君と私は同じ顔だから、盗賊達も私と同じ顔の君を狐と思った」
「あぁ!うん!」
 その通り、と言うように雷蔵は何度も頷く。
「雷蔵、君は私と顔が同じである事に気付いていたのか?」
「うん」
「それに対して疑問は持たなかったのか?」
「えっ?…うぅん……」
 暫く考え、雷蔵は誤魔化すように「えへへ」と笑う。
 さして気にも留めていなかった、と言う事だろう。
「雷蔵…」
「ん?」
「悪いが続きをやっておいてくれ。直ぐ戻るから」
「えッ!?ぁ、あう!」
 雷蔵が呼び止めるように声を上げる。しかしそれより早く、三郎は木々の合間へと消えていった。




 草を掻き分け、三郎は自分の寝床に戻ってきた。
 今ではすっかり敷き物と化した母の毛皮。しかし、その艶は幾度日を重ねても衰える事は無い。
 三郎は地面に膝を付くと、毛皮を手に取り、そっとそれを抱き締めた。
 母の匂いに包まれれば、心地良い憎しみに浸る事が出来る。
 妙に裏切られた気分だ。しかし、いっそ清々しくさえ思える。
(もしかしたらと思っていた。もしかしたら、雷蔵は母を食べてなどいないと…)
 本当は雷蔵が食べたのは全く別の九尾で、母の毛皮も流れて流れて偶然雷蔵の元へ渡ったのではないかと。
 そうすれば雷蔵への憎しみも、少しは減るのではないかと思っていた。
 しかし、もう駄目だ。三郎は確固たる証拠に気付いてしまった。
(俺の顔は血によって受け継がれたもの。なのに何故雷蔵も同じ顔をしている)
 答えは一つ。雷蔵に取り込まれた母の力が、何かしらの理由で雷蔵の顔を作り変えたとしか考えられない。
 その結果、雷蔵の顔は狐の子である三郎の顔に酷似してしまったと。
(やはり雷蔵は、俺にとって許されざる存在)
 忘れかけた憎しみが蘇る。
 しかし、身が焼ける程の憎しみも、一度は揺らいでしまったのだ。またいつ憎しみを忘れる時が来るかもしれない。
 ならば、決断は早い方が良い。
(今晩に、全てを終わらせよう)
 今の三郎には七尾に匹敵する力が眠っているとは言え、雷蔵の破魔の力の前に敵う程の力ではない。
 それでも、油断している隙を突けば、あの白い喉を噛み千切る事ぐらいは出来るだろう。
 しかし、もし雷蔵が事切れるまでの瞬間にあの力を最大限に放ってきたら、次こそは妖力の喪失では済まされない。
 もしかしたら三郎の肉体ごと消し飛んでしまうかもしれない。
(復讐が叶うなら、玉砕は本望。この尾に賭けて、雷蔵の命は俺が喰らってやる)
 三郎の殺気に気付いてか、土に落ちた木の実を突付いていた鳥達が一斉に飛び立った。
 羽音に交じり、ガサリと草が揺れる音に気付き、三郎は咄嗟に抱いていた毛皮を置く。
「あ…ぉ、あ!」
「雷蔵、もう終ったのか?」
「あ…ううん」
 手を洗ったのか、濡れた手を軽く振りながら雷蔵は首を横に振る。
「どうした?」
「ん…」
「腹が減ったのか」
「うん」
 苦笑いを浮かべる雷蔵。
 そう言えば、もう日がかなり高い。
「腹が減ったならそこの木の実を食べろ」
「あ…あ!」
 ぎゅっと手首を掴まれる。一緒に食べようと言いたいのだろうか。
「私は木の実は食べない。雷蔵が食べると良い」
 憎しみを保つ為、なるべく雷蔵に関わりたく無かった。
 あの笑顔に、三郎は何度も騙されそうになったのだから。
 その時、タイミング悪く三郎の腹がグゥと鳴った。なんだかんだで、結局昨夜は食事出来なかったから仕方の無い事だが。
 間の悪さに、三郎はバツの悪そうな顔をする。
「ぁ…」
「わ、私は大丈夫だ。一週間水だけで過ごした時もある。木の実はお前だけで食え」
「ん……」
 腑に落ちない、と言いたげに雷蔵は仕方無しに頷く。
「…私は引き続き物を埋めてくる。お前は少し休憩していろ」
「うん……」
 雷蔵が寂しそうな顔をする。あまり見ていたら、また情に流されそうだ。
 三郎は、雷蔵の顔を見ないようにし、その場を立ち去った。

 日が沈み、限り無く円に近い月が雲の間より見え隠れしている。
 そう言えば雷蔵と出会ったから一月が経つのだなと、三郎は木の上で密かに思った。
 雷蔵は木の側で焼けた魚を囓っている。昼のあの時以来、彼らは会話らしい会話をしていない。最も、雷蔵は喋る事が出来ないが。
 静かな夜だ。しかし、やけに自分の心音が煩いと三郎は感じていた。
 勝手に興奮する心臓を宥めながら、彼は月を眺める。
 満たない月の光が、三郎を照らし出す。せめてあと一日決断が遅ければコンディションも万全だったのに、と少し悔やんだ。
 だが、その一日で三郎はまた雷蔵に依存してしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
 三郎はずっと、復讐だけを望んで生きてきたのだから。
 狙う隙は床に入った時。恐らく、一番人間が油断する瞬間だろう。
 雷蔵が寝付くその直前、その喉を噛み切ればそれで終わりだ。
 考えるのは容易い。しかし、実行するのは命懸けだ。もし一瞬でも雷蔵が三郎に敵意を示せば、彼の命は塵に等しい。
 全ては覚悟の上。その時まではせめて安らかにと、三郎は大きく息を吸った。

 ふと、辺りの闇が強まった事に気付き、三郎は地面へ目を向ける。
「…雷蔵?」
 いつの間にか雷蔵は姿を消していた。暗くなったのは薪をくべる者が居なくなった為に火が消えたからだ。
 地上へ降り、三郎は辺りを見回す。
 まさか今更帰ってしまったのではないか。そんな不安が一瞬過ぎるが、気配はあった。
「雷蔵、何処だ?」
「ぁ…ぅぁ…!」
 やや離れた所で雷蔵の声がする。
 少し待てば茂みの中から雷蔵が這い出てきた。
「何やっていたんだ?」
「ぅ〜……」
 困った表情を浮かべる雷蔵。一瞬躊躇して両手を三郎に見せた。
「…どうしたんだ?その手…」
 雷蔵の手は細かい傷に塗れていた。小さく深い傷もあり、そこからは血も流れていた。
「この傷跡はネズミだな。ネズミを掴まえようとしたのか?」
「…うん」
 雷蔵の表情が重い。どうやら逃してしまったようだ。
「なんだ、魚だけじゃ食い足りなかったのか?」
「えッ!?ううん!ううん!」
 力一杯否定する様子から、食べる為に掴まえようとしたのではないらしい。
 では何故ネズミを掴まえようとしたのだろうか。問おうとしたが、恐らく答えられないだろうと思い、質問を喉の奥で潰した。
「取り敢えず川で傷を洗って来いよ」
「うん…」
 小さく頷き、雷蔵は川の方へ走ってゆく。
 彼の姿が視界から消えた瞬間、三郎は全身の血が急激に流れ出した錯覚に襲われた。
 表向きでは平静を装っていても、確実にその時は近付いている。
 漸く復讐を達成出来る期待と、それに伴い大きな物を失いそうな不安。
 それらがギリギリと三郎の精神を圧迫していた。
「…気持ち悪…」
 ポタポタと汗が伝い落ちる。死を目の前にしたプレッシャーは、三郎にとって初めての経験だった。
(落ち着け…まだ死ぬと決まった訳ではない。雷蔵は優しい男だから、例え殺される寸ででも俺をトモダチとして見てくれるかもしれない。優しい、男だから…)
 ズキリ、三郎は胸に鈍い痛みを感じて俯く。
(駄目だ!余計な事は考えるな!アイツは人間だ!アイツは仇だ!アイツは…アイツは消えるべきなんだ!!)
 心の中で迷いを振り払うように叫ぶ。
 もう迷っている余裕も猶予も無いのだ。
(ッ…、恐い、苦しい…!クソッ、苛々するッ…!)
 いっそ時間が早く過ぎれば良いのにと思った。
 少しでも早く、この悶えるしかない時間から抜け出したい。そう願った。

 一際強い風が吹き、三郎は少し正気に戻る。
 手を洗いに行っただけにしては、雷蔵の帰りが遅い。
 普段は気にならない事でも、今の三郎の不安を煽るには十分だった。
 まさか、そう思った時には既に足が動いていた。
 草を掻き分けて木が生え並ぶ緩やかな坂を下ればもう川が見えて来る。寝床から走って三十秒と掛らない。
「雷蔵…?」
 川辺を見回す。名を呼んでみるが反応は無い。
 視界の届く限り辺りを眺めるが、雷蔵の気配は全く感じられ無かった。
「…はは……やられたっ!」
 逃げられた。三郎はその場に膝を付く。
 何故雷蔵が突然去ったかはわからない。
 隠していた筈の殺気に気付いたのか、やはり昨夜の件で人が恋しくなったのか。
 兎に角、雷蔵は逃げた。此所に居ないのが何より証拠だ。
 消えた。居なくなった。三郎の前から。
(…………)
 そこまで考えて、三郎は緩くて頭を振る。
 違う。雷蔵が帰ってくる可能性は十分に有り得る。匂いを追えば追跡だって出来る。然程遠くへ行ってない筈だ。
 確かに此所には居ないけど、何処か寄り道しているだけなのかもしれない。雷蔵はああ見えて結構気紛れだから。
(何、都合の良い事考えてんだろ、俺…)
 頭が必死で勘違いしようとしている。雷蔵は逃げた。もう帰って来ないと。
 そう思う反面で、雷蔵はきっと帰って来る。帰って来ないと困る。復讐を成功させる為にも。と叫ぶ自分がいるのも事実。
 追わなければ。気は焦るが身体が動かない。
 いっそ時間が止まれば良いのにとさえ思ってしまった。
 その時、

 ズドォ…ン…!

「ッ!?」
 地を揺るがすように響いた銃声に、三郎は弾かれるように顔を上げた。
 昨日のような腰を抜かす程の轟音ではないものの、近い。
 ゴゥ、と一際強い風が運んだ不穏な空気に、血の気が引く。
「鉄砲の、匂い…ッ!?」
 焔硝と鉄の匂いに、三郎は息を飲む。
 動物の第六感と言おうか、三郎の脳内に最悪のビジョンが映し出される。
 雷蔵に何かあったのでは…。
 彼はは俄かに冷たくなった拳を握り締め、音の元へ走り出した。

 目標は直ぐに見つかった。厳つい姿に鉄の筒を持った姿には見覚えがあった。
「はっ、やっぱり近くに居たか、化け狐が」
「お前は昨日の…!」
 昨日、三郎が喰らおうとして失敗した盗賊の頭。
 彼が手にしている鉄砲からは、火薬の匂いが濃く漂っていた。
「お前…雷蔵はどうした?」
「雷蔵?…あぁ、もう一匹の狐の事か」
「違う。雷蔵は人間…いや、私の獲物だ」
「はぁ?知るかよンな事。あの野郎なら森の奥へ逃げて行ったぜ」
 良かった、無事に逃げたのか。
 その台詞に、三郎は少し安堵する。
 しかしその安堵も束の間、次の男の言葉に、三郎は一気に奈落へと突き落とされた。

「だが、確実に急所に当てた。ありゃもう半刻も持たねぇな」
「な…ッ!?」

 雷蔵が撃たれた。それも相当な深手を。
 その事実に、三郎はワナワナと身を震わせた。
「雷蔵を…撃ったのか?」
「あぁ、簡単だったぜ。獣は別の獲物を狙っている時に撃つのに限る」
「…獲物?」
「あぁ、蛇とかトカゲとか茸とか…薄気味悪いモンばかり集めていたな」
 それを聞いて、三郎は雷蔵の手の傷を思い出す。
 蛇にトカゲにネズミ…そんな物を集めて雷蔵は何をするつもりだったのだろうか。
「さて、お喋りはここまでだ化け狐」
 チャッと小さな音を立てて銃が構えられる。
 言うまでもなく、その矛先は三郎に向けられていた。
「お前の所為で子分は逃げるわ、一人は二度と起き上がれなくなった。この礼はきっちりさせて貰わないとな」
 ギリリと引き金に掛ける指に力が込められる。いつ発砲してもおかしくない状態だ。
 しかし、三郎はそれに臆する様子は無い。
 一歩、一歩と歩を進める。
「おい、動くな」
「………」
「動くんじゃねぇ!!」
 グイ、と銃口が三郎の額に押し当てられる。漸く三郎の足が止まった。
「そんなに仲間が心配か?だったら今直ぐあの世に送って………っッ!?」
 男が言葉を言い終わる前に異変が起きた。
 辺りの草や木、石や大気までもが鮮やかな橙に染まった。
「な、何だッ!テメェ、何をし…熱ッ!」
 男が手にしていた銃が異様な熱を孕み、彼は思わず手を離す。
 落ちたそれは、地に落ちた瞬間にドロリと氷の如く溶けてしまった。
 中の火薬が弾ぜ、溶けた鉄が男の足に飛び散った。
「ぐああぁッ!」
 耐えがたい痛みと熱さに、男はその場で尻を突く。
 そして、目の前にいる『七尾』に気付いた時には全てが遅かった。
「おい、嘘だろ…」

 男のその言葉を最期に、三郎を中心に巨大な火柱が上がった。





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